その4 「明治の父」小栗上野介

 日露戦争で無敵と云われたバルチック艦隊を敗った東郷平八郎は、「我々が勝ったのは、小栗上野介のおかげだった」としみじみ言ったそうです。

 

 万延元年(1860)、幕府は日米修好通商条約を批准するための遣米使節団を送りますが、米艦の「パーハタン」に乗り込んだ三人の使節の一人が、小栗上野介忠順(ただまさ)。

 

 

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 このとき、幕府は、これと別に自国の軍艦「威臨丸」を派遣しますが、この艦長が、ご存じの勝海舟で、上司の軍艦奉行が、木村摂津守。そして、福沢諭吉は、木村摂津守の従者としてアメリカに渡ります。

 

 小栗上野介は、帰国後、幕府の金蔵を預かる勘定奉行にとなるや否や、大胆な改革に乗り出します。まずは、最新鋭の造船所の建設計画。

 世界を見て、海軍力の大きさが国力を決定することを痛感していた小栗は、フランスと交渉して、巨額の建造費を借り入れます。

 

 小栗は、子供のころから、徳川家に対する忠誠を叩きこまれて育ってきた幕臣ですが、時代を見通す見識があります。数年後、建造が始まった横須賀造船所を眺めながら、「(もし、幕府が潰れてしまっても)これで土蔵付きの売家になる」と云ったそうです。

 

 その後も小栗は、鉄道建設計画、郵便・電信事業の計画、新聞の発行計画等々、近代国家の建設に向けた計画を次々と打ち出します。

 内部改革にも手を付け、無能な要職者の給料を大幅に減額したり、賄賂を撤廃などなど、そして、このため、上部に睨まれて、何度も首になるのですが、後任がいなくて復職。

 しかし、小栗の近代国家作りは、あくまでも徳川家を中心に置いた国家でした。

 誰もが幕府の未来に不安を覚えている中での小栗のこの働きに、疑問を投げかける向きもありましたが、それに小栗は、こう答えているのです。

「両親が病気で死のうとしている時に、もう駄目だと思っていても看病の限りを尽くすではないか。自分のやっているのはそれだよ」と。

 

 江戸城開城前夜。徳川慶喜は、徹底抗戦を主張する小栗の意見を一旦は採用するのですが、翌日、一転して全面降伏を決定し、小栗を解任するのです。

 

 後に上野に籠もった旧幕臣を潰走させた新政府軍の総司令官大村益次郎は、小栗の立案した作戦を見て、「もしこれが実行されれば大変なことになっていただろう」と云ったそうですから、もし、小栗の案が容れられていれば歴史が変わっていたかもしれません。

 

 小栗は、江戸を去り、知行地で、第二の人生を送ろうとしていました。村人に教育を施し、未来を担う人材を育てようと、幕府でもない徳川でもない、自分の人生を生きようとしていた矢先、新政府の逮捕状が届くのです。

 新政府は、小栗の存在が大きく見えて、怖れたのでしょう。小栗を捕らえて弁明の機会も与えず、しかも切腹ではなく、河原に連れて行き、罪人として打首にしてしまうのです。

 首を斬られる前に、小栗の部下たち無実を訴えて騒いでいるのに対し、一言「お静かに」

これが、小栗のこの世での最期の言葉になりました。小栗上野介忠順享年四十二歳。

 

 しかし、何てバカなことしたんだろう、新政府は。

同僚の反対を押し切って建造し、バルチック艦隊との勝敗を分ける結果となった横須賀造船所のほか、明治の世に多くのものを与えてこの世を去って行った小栗上野介。 

作家の司馬遼太郎さんは、この小栗上野介を「明治の父」と讃えています。

 

 

 

 

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